「未来を見通し、人を見る」東芝 元副社長 森本氏が語る、考え抜くために大切なこと(前編)

東芝の現地法人社長時代、時代の先を読む施策でわずか2年の間にキャッシュフローを100億円に増やした森本泰生(もりもと・やすお) 氏。その後、電子部品国際欧州部長、アジア総代表を歴任したのち、やがて東芝副社長に就任した。退社後の現在もビジネスブレークスルー大学の名誉教授として、ビジネスの最前線を見続けている。

日本の高度経済成長の一翼を担った森本氏に、長年の経験から培った、考え抜くために必要な要素を聞いた−−。

この記事のポイント

  1. 問題解決思考をどう再現するか
  2. 未来を先読みし先手を打つ
  3. 仕組みで人を動かす

マッキンゼーに学んだ問題解決思考

東芝の副社長に就任される以前の森本さんは、仕事をする際どのようにして「考え抜かれて」いたのでしょうか。

礎となったのは、東芝の総合企画部にいた1969年に、マッキンゼーと仕事をご一緒した経験だと思います。共に行ったのはファクシミリのプロジェクトです。当時マッキンゼーは日本に進出したばかりでしたし、マッキンゼーにとって初の日本における大規模プロジェクトだったのではないでしょうか。

マッキンゼーと仕事をして得たのは、とにかく今では標準的な分析や想定を行い、最適解を見つけ出そうとする仕事の進め方です。20代後半だった私は刺激を受け、この問題解決思考をその後の仕事に取り入れるようになりました。

側で見るのと実践するのには大きな差があると思いますが、森本さんはどうやって身につけたのでしょうか?

当時は小さなチームでしたから、私もプロジェクトチームの一員として考え、共に手を動かしました。ただの発注主ではなく、並走したおかげで、マッキンゼーの問題解決の思考がそれなりに身に付いたのだと思います。

ただし、少数のチームメンバーだけが、問題解決思考を身につけても意味がありません。そこで、マッキンゼーからの学びを東芝内の仕事に合うようにカスタマイズし、社内の業務遂行マニュアルを作成しました。そのマニュアル作成過程で問題解決思考が身についてきたと思います。

その後も多数のプロジェクトに携わりましたが、根本的な仕事の進め方は変えていません。業界のベンチマークや問題解決思考がわかると、何をすべきなのかという次に繋がる仕組みができます。考え抜けるかどうかには、身を置く環境が影響していると感じます。例えばスタートアップのような少人数のチームや、経営危機が訪れている会社であれば、ミッションが明確ですからそこにいる全員が考えますよね。「考え抜くことが必要な環境に身を置けるかどうか」は、考え抜く力をつけるために重要な要素だと感じます。

時代の先や今の課題を俯瞰する

当時の森本さんはどんな社員でしたか?

若手の頃は、会社全体を俯瞰して、何が会社の課題なのかを考えていましたね。総合企画部にいたおかげもあり、視野は広くなりました。各現場を細かく変革していく立場にはありませんでしたが、当時の東芝は生産設備やマーケティングにお金をかけているわりに、系統だった判断基準やマネジメント手法がないことが課題だと感じていました。

その後、大分の工場を経て、マレーシアの半導体製造子会社社長に赴任されていますね。

当時のマレーシアの子会社は、定年間際の方が行く部門でした。どちらかというと閑職というイメージで、誰も行きたがりませんでした。それで私は、マレーシア現地法人社長になりたいと手を挙げたのです。勤務先を希望したのはこの時だけでした。

なぜ自ら志願したのでしょうか。

「これからマレーシアの工場の時代が来る」と思ったからです。当時は、ドル円固定相場から変動相場制に移行し、今後円高になることが予想できました。赴任1年後の1985年にはプラザ合意が起こり、さらに円高が進みましたしね。また、今後は生産の拠点が日本から海外に移っていくだろうとも感じていました。赴任してテコ入れをすれば、将来的に大きな収益を生む、優秀な拠点になるだろうという確信がありました。

自分のやり方を貫き結果を出す

具体的にはどのようなテコ入れをされましたか。

まず、本社の指示に従わなければいけないという前提を捨てました。当時は東芝の小さな海外子会社の社長ではなく、小規模でも会社の社長なんだと思っていました。いわば独立軍ですね。売り上げも95%を日本国外で上げていましたので自分の責任で、本社からの干渉なく行動することを決めました。

具体的に実施したことの一つ目は、生産体制の見直しです。まず気になったのは工場が綺麗ではなかったこと。いわゆる5Sのような整理整頓のルールが何もありませんでした。そこで、工場自体を一部建て替え、大幅にリノベーションをしました。すると、誰も工場を汚さなくなりました。「綺麗にしろ」と言っても人はなかなか動けない。場を綺麗にすることで、命令ではなく綺麗に使おうという気持ちを作りました。

二つ目は、販売のルールの変更です。「完成した製品在庫を工場に置けるのは2日以内」という明確なルールを設けました。元々販売部門の1品別注文によって製造されたものですから市況が変わっても各販売部門に在庫を引き取ってもらうことにしたのです。マレーシアで生産していた半導体は、汎用性がある部品。営業すれば必ず買い手が見つかります。ですが工場に在庫を置いていても1円も生みませんよね。これまでは1〜2週間工場に在庫を置いていたところを、作ったらすぐに売るようにしたのです。

また、価格も見直しました。以前はどの国に対しても一律の価格で販売していましたが、国ごとに競合の価格を調査し、適正価格の値付けをし直したのです。その結果「売り負けない」「しっかり利益が出る」販売体制が構築できました。

そして三つ目は、人員体制です。おそらく今後は機械化が進む。労働集約型の働き方が変わり、少人数で効率的に生産することが工場のスタンダードになるだろうと予測しました。それはすなわち、いずれはリストラをしなければならないということです。ですが人員整理はすんなりといきました。

なぜでしょうか。

早い段階で、先を見通せていたからです。当時の工場の従業員は若い女性中心の約1,200人で、離職率は年10%程度。早めに新規採用数を減らしておけば、誰かに辞めてもらうことなく、ずっと最適な社員数での工場運営が保てると見通していました。

仕組みで人を動かすこと。そして時代の変化を予測し、早い段階で打ち手を講じておくことで、効率的な工場が実現しました。

結果として、1商品2円の半導体商品を扱っているマレーシア工場は100億円を超える内部留保を作ることができ、そのキャッシュでタイに次の工場を作ることもできました。マレーシア工場は、東芝に大きな利益をもたらし、これまでの日陰のキャリアポジションが、それなりに日の当たるポジションとなっていきました。

[ライター:井澤梓

プロフィール

インタビュイー

森本 泰生(もりもと・やすお)氏  

東京工業大学経営工学科卒業、コーネル大学エンジニアリング科修士課程修了(Master of Science)卒業。 1963年、東芝入社。セミコンダクター・カンパニー初代社長(社内分社)、東芝代表取締役副社長を歴任後、APEC(アジア太平洋経済協力機構)ビジネス諮問委員会日本委員(2009~2011)などを務める

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