困難を味方にする力―経済学の知恵―

はじめに~脳内物質が経済学を変えた

最近、テレビCMなどにも登場して身近になっている経済学の考え方の一つに、行動経済学があります。心理学者でありながらノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンがプロスペクト理論*を世に送り出して以降、古典的な経済学の限界に対して、人間の心理的作用を踏まえた行動経済学の秀逸さが認められてきました。*不確実性下における意思決定モデルの一つ

そもそも、多くの伝統的な経済理論は「人は合理的に行動する」という前提でモデル構築をしており、脳内ホルモンの分泌などは研究の埒外だったわけです。

私も大学の授業で、次のような二つの質問をしながら、人間の非合理性を説明しています。

例えばここに、確実にもらえる1億円があるとします。一方、コイントスして表なら2億円、裏なら0円となるもう一つの選択肢があるとします。この2つの選択肢のうち、どちらを選ぶかを尋ねると、学生たちは素直に前者(確実にもらえる1億円)を選択してくれます。そのおかげで授業が進めやすくなります。

次に、2億円の借金を背負っていることを想定します。今度は確実に半額免除してもらえる選択肢と、コイントスで表なら全額免除、裏なら免除なしという選択肢について考えてもらいます。この場合、素直な学生たちは後者を選択します。

いずれの質問においても、そしていずれの選択肢を選んでも、期待値は「プラス1億円」です。古い経済学の考え方であれば、いずれの選択も「中立」、つまりどうでもいいという結論になります。

少し進めてファイナンスの平均分散アプローチで考えると、期待利得が全て1億円である一方、それぞれの質問の1番目の選択肢は分散ゼロ、つまりノーリスクであるため、いずれも1番目の選択を行うべきという「合理的解」を示すでしょう。

一方でプロスペクト理論においては、次のように説明します。債務や損失を背負っていない状況では、脳内物質セロトニンが分泌され判断の冷静さが強化されます。このため、安全確実なプラス1億円を選択することとなります。一方で、債務を背負っている想定の質問では、ドーパミンが分泌され大胆な行動が触発される傾向があります。その結果、ギャンブルに走る、つまりコイントスを選ぶということが説明されています。

心理の非合理を認識した上で経済学を捉える

確かに現実世界に目を向ければ、心理的作用を加味した行動経済的なアプローチが適切だと思われますが、これは必ずしも古典的経済学の価値を否定するものではないと思うのです。

経済学は古典的なものであれ進歩的なものであれ、社会厚生、つまり人々のしあわせを増やす方策を指し示すものだと思っています。ですから、心理的作用を踏まえながら、意識的に合理的な行動選択を行うことが効用増加に繋がることは確かです。

そのため、実際には、心理的作用を認識したうえでいかに古典的経済学が示唆する考え方に適合した行動が取れるかを考えることが有用だと思います。以下に示す3つの経済用語は、ビジネスパーソンとしてはごく基本的なものですが、改めてこの行動規範に照らして考えてみましょう。

1. サンクコスト

経済学の原則として必ず登場するサンクコスト(埋没費用)については、ビジネス上の意思決定で必須の概念であり、詳細な説明は不要だと思いますので、以下に簡単に例示します。

総工費100億円のマンション建設で、すでに費やしたコストが99億9千9百万円となりました。この段階で致命的構造欠陥が見つかり修復困難となった場合、とりあえず完成させてから考えようという判断に陥る可能性があります。

しかし、追加コストがたとえ10円であっても工事は中止すべきです。既に使ってしまったコストは「サンクコスト」であり、取り戻すことはできません。そして追加コストは1円であれ、損失を膨らませるだけです。人間心理では、既に使ってしまったコストが頭から離れず、それを正当化することがあります。

こうした心理的バイアスは日常的に発生します。例えば新商品企画で9回のプレゼンを済ませ、あと1回の重役会議で採択されるという状況で、採算計算の過誤に気づいたようなときはどうするでしょう。

後に引けない状況ではありますが、サンクコストの考え方と同様、上席者に状況を素直に告白すべきでしょう。

金銭的コストと同様に、過去に費やしたエネルギーなどは、ある意味でサンクコストです。修正や修復ができればいいのですが、できない場合は潔く誤りを認めることです。

私たちは、過去を生きているのではなく現在を生きています。現在の判断が将来にどうつながるかが重要なのです。

2. マージナル・シンキング

サンクコストでは、過去をむやみに振り返らず将来を見据えて現在の判断を行う必要性を述べました。これは経済学でいうところの「限界」と「平均」の考え方に似ています。

1枚1000円のステーキを2枚平らげたところで、もう1枚100円と言われたとします。満腹ですが、あと1枚はぎりぎり食べられそうです。あと1枚食べると、1枚平均700円に単価が下がる計算ですが、食べるべきでしょうか?

この場合、3枚目のステーキがもたらす満足感(効用)がないなら食べるべきではないでしょう。すでに2000円支払ってしまっている状況ですので、現在の判断はもう1枚のステーキの満足感、つまり限界効用を上回る限界コストの比較によって行うべきです。つまり、過去の消費は無視すべきという判断になります。

ビジネス的にも同じことがいえます。例えば、トップ営業マンが何年かけても新規契約ができなかったクライアントでも、ひとつの取引で社運を変えるほど自社に利益をもたらす取引先であれば、次期も営業リソースを確保するという判断になるでしょう。

過去に山ほどの失敗を重ねて取引を獲得することができない相手だとしても、その後に消費するエネルギーに対して、次の一手で得られる取引成就期待値が大きい場合は、過去に縛られず「次の一手」の判断に委ねるべきです。

3. 機会コスト

選択することによって失われる他の選択肢の価値を機会コストと言いますが、普段の生活でもこの概念を意識することにより、効果的で効率的な仕事へとつながります。

私の職場である大学というところは、いい意味でも悪い意味でも「何かをおこなうことのコスト」あるいは「やらないことのコスト」を意識しないので、当初は驚きました。

例えば「教育活動にできる限り多くの時間を費やすべき」という大学の方針があったとして、それ自体は間違ったことではないのですが、教育活動に時間を割くことによって失われる研究活動の機会の損失については、何の考えも示されない場合が往々にしてあるのです。

一例をあげれば、教授会などで費やされる時間を「ムダ」として考えずに、「教授会は時間がかかるもの」という既成概念に支配されています。教授会のテーマを絞ることで会議時間を短縮化すれば、研究により多くの時間を費やすことができ、その結果研究成果を送り出すことができる、などという考え方ができないようです。

学生にも機会コストを常に意識することを促しています。4年間の学生生活を無為に過ごすのは、あらゆる価値を犠牲にしていることと同じです。

人間として教養を身につけることによる価値、アルバイトによる金銭的価値、ボランティアによって得られる精神的充足感や学びによる価値など様々ありますが、それらのうち自分にとって最大の価値を生むと考えられるものが、機会コストです。無為に過ごすことは、機会損失に直結します。

最後に~受容力を磨く

ここまで3つの経済用語を紹介しましたが、ビジネス、プライベートに関係なく幸福感を紡ぎだす思考能力としてこれらにも共通するのは、「受容力」です。

受容力とは、与えられた状況を受け止めて昇華する力です。人間がいかなる生活を営んでいたとしてもイレギュラーな事態はつきものです。私は、いかなる状況にあっても不運を嘆くことなく、その境遇は自分の人生に何らかの意味合いを持つものであると考えるようにしています。

私がアナリストとして海外投資家の訪問を行っていたときの話です。ある年、ロンドンを皮切りにニューヨーク、ボストン、サンフランシスコの投資家を巡るグローバルツアーを行いました。しかし、初日のロンドンの晩、バスルームで転倒し背中を強打、しばらく動けなくなりました。

まず考えたのは、救急車を呼ぶべきかどうかで、その緊急性はないと判断しました。次に、翌日以降の投資家訪問が可能かを考えました。本来予定していた長旅の可否を、医療の素人である自分が判断することはリスクであると考え、インターネットで翌朝行ける病院を探しました。同時にメールで営業担当に事情を報告し、午前中のミーティングをキャンセルしてもらいました。また、午後に関しても医師の診断次第ではキャンセルとなる可能性を示唆しておきました。

翌朝診断してもらった結果、肋骨にヒビが入っているものの、痛みが大きくなければツアーを続けてよしとのことでした。コルセットと痛み止めを処方してもらってその日の午後のスケジュールを消化し、それ以降の日程も予定通りこなすことができました。

このような状況でも、その場で不運を恨んだり嘆いたりする暇があれば、自らの状況を分析し善後策を冷静に検討することが、状況を良い方向に向かわせる近道です。

ロンドンでの怪我の際、ようやく起き上がったときに私がまず考えたのは、頭を打つなどの深刻な状況でなく幸運だったということで、むしろ感謝の気持ちすらもつことができました。このような思考のおかげで、逆境にもかかわらず、精神的なダメージも軽くすることができました。

受容力は、経験を通した鍛錬が必要です。与えられた環境を受け止め、状況を改善する行動をいち早く取る能力が、ビジネス上だけでなく通常の生活の中でも非常に重要となることはご理解頂けると思います。

新型コロナ禍で、思うに任せない状況に陥っていない人のほうが少ないと思います。しかし、現下の情勢を所与として最善の選択を行うことこそ、環境順応であり、自然淘汰から逃れるすべです。

嫌なことから逃げない、困難を遠ざけないという覚悟も必要です。困難には、人を成長させる秘密の薬が含まれています。困ることが、人の知恵を刺激し、学びや成長を提供するのです。

プロフィール

本コラムの著者

野崎浩成(のざき・ひろなり)氏

東洋大学国際学部教授。86年慶大経卒、91年エール大院修了、博士(政策研究)。埼玉銀行、HSBC証券、シティグループ証券、京都文教大学など経て2018年より現職。日経アナリストランキング1位(銀行部門、11年連続1位)、2015、2020年金融審議会専門委員。 「消える地銀 生き残る地銀」(日本経済新聞出版社)など著書多数 。

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